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慈信坊にすかされて [親鸞の手紙を読む(その111)]

(9)慈信坊にすかされて

 慈信房(善鸞)が人々に言っていることは「きはまれるひがごと」であり、わたしがこれまで言ってきたこととは縁もゆかりもありませんと繰り返し述べたあと、ここでは、そんな「慈信坊にすかされて、信心みなうかれあふておはしまし候ふなること」に話題が転じられます。慈信房がとんでもないことを言っているとしても、どうしてそんなことに「すかされ」てしまうのかと、「年ごろ、信ありと仰せられあふて候ひけるひとびと」の信のありように苦言を呈しているのです。慈信房ごときが言うことに「ひとびとの日ごろの信のたぢろきあふておはしまし候ふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれて候ふ」と。
 あやまった教えを説く慈信房が悪いのはもちろんだが、それにコロッと騙されてしまうみんなも何と不甲斐ないことよと嘆いているのです。
 人々の「信のさだまらず候ふ」こと、「信心のまことならぬ」こと、ここに問題の本質があるのであって、それがはっきりしたのは「よきことにて候ふ」とまで言います。まことの信心というのは、そんなことで「たぢろきあふ」ようなものではないということです。まことの信心とはどのようなものであるかについて、性信房に宛てて善鸞を義絶したことを知らせる書状(『親鸞聖人血脈文集』第2通、建長八年五月二十九日付け)で親鸞はこう言っています、「光明寺の和尚(善導)の、信のやうををしへさせたまひ候ふには、まことの信をさだめられてのちには、弥陀のごときの仏、釈迦のごときの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがごとなりと仰せらるとも、一念も疑あるべからずとこそうけたまはりて候へば云々」と。
 ここで驚くべきことが言われています。弥陀のような仏、釈迦のような仏たちが口ぐちに本願なんて嘘っぱちだと言ったとしても、それでもまったく揺らぐことのない信心こそまことの信心だというのです。どんなに権威のある人が本願を否定しようが、そんなことではビクともしない信心、それがほんものの信心であるということ、ここには深く考えなければならないことがありそうです。

タグ:親鸞を読む
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