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本願にゲットされる [親鸞の手紙を読む(その113)]

(11)本願にゲットされる

 しかし「信を与えられる」という言い方は分かったようでよく分からない。浄土真宗ではしばしば「賜りたる信心」という言い方がされますが、信心を賜るとはどういうことか、なかなかピンときません。そこで、こんな言い方をしてきました。こちらから本願をゲットするのではなく、逆に、むこうから本願にゲットされる、と。若者ことばを使うことに気恥ずかしい思いもありますが、「与える・与えられる」よりも「ゲットする・ゲットされる」の方が事実により迫れるのではないでしょうか。
 本願を信じるとはどういうことか。普通には、本願とは何かをよくよく吟味した上で、それは嘘っぱちではなく本物であると信じるということでしょう。何か弥陀の本願というものがあると言われるが、そんなものがほんとうにあるのだろうか、ひとつしっかり吟味しなければならない。経典には確かにそのようなものがあると書いてあるが、それだけで信じられるほど純朴でないので、権威ある人たちがどう言っているかを調べてみなければならない。というわけで、さまざまな書物の森を渉猟することになります。
 これがこちらから本願をゲットしようとすることです。この信はしかしなかなか「さだまらず」、また何かあるとすぐ「たぢろきあふ」ものです。一旦は権威ある人(たとえば親鸞)の証言をうけて、これはまちがいないと信じたものの、別の権威(たとえば善鸞)がそれに反することを言うのを聞くと、たちまち「たぢろきあふ」ことになります。そこを親鸞は「ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれてさふらふ」と嘆いているのです。ではまことの信とは何か。
 もう言うまでもないでしょう、あるときふとむこうからやってきた本願にゲットされることです。気がついたらもうゲットされている。こうなりますと、「弥陀のごときの仏、釈迦のごときの仏、そらにみちみちて、釈迦のおしへ、弥陀の本願はひがごとなりとおほせらるとも、一念もうたがひあるべからず」ですし、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」です。これこそ金剛堅固の信心です。

              (第10回 完)

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