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後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと [親鸞の手紙を読む(その117)]

(4)後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと

 「おまえに女犯の宿命があるなら、わたしが妻となって一生寄り添ってあげよう、そして浄土に往生させてあげよう」という生々しいことばを夢の中で聞いたことが機縁となって親鸞が吉水の法然を訪ね、そして「雑行をすてて本願に帰す」ことになったというのは何とも印象深いことです。女犯とは言うまでもなく僧が不婬戒を破ることですが、29歳の親鸞にとって性の問題はのっぴきならず身に迫っていたことだろうと思われます。おのれに正直であろうとすれば、この問題に蓋をすることはできないでしょう。叡山の多くの僧が人目をはばかりながら妻をたくわえていたことは公然の秘密です。
 親鸞は性の問題で苦しんでいたがゆえに「行者宿報の偈」を夢の中で聞くことになったと思われますが、それを聞いたその足で法然を訪ねたということも印象に残ります。どうして女犯の問題が法然と結びつくのか。親鸞は法然が東山・吉水の地で「専修念仏」を説いていることは当然知っていたでしょう。法然が山を下りて東山・吉水に庵をかまえ、「ただ念仏」の教えを説くようになったのは承安五年(1175年、法然43歳)ですから、親鸞が生まれて間もない頃のことです。なにやら吉水には、上は貴族から下は庶民に至るまで、さまざまな人たちが出入りして法然上人の教えを喜んで聞いているそうだという噂は山の上まで届いていたに違いありません。
 そして法然の教えの大事なポイントが「ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに」というところにあったこと、これを親鸞は伝え聞いていたからこそ、「行者宿報の偈」の「示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて」となった。己は女犯の宿報をもつ「あしき」身であると思い知るがゆえに、そのようなものも「おなじやうに」後世のたすけに与ることができると説く法然上人のもとを訪ねようと思ったということです。

タグ:親鸞を読む
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