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上人のわたらせたまはんところには [親鸞の手紙を読む(その118)]

(5)上人のわたらせたまはんところには

 そして「百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも」通い続けた結果、「生死出づべき道をば、ただ一すぢに」説かれる上人の教えが身に染みわたったことでしょう。そして、こんな「あしき」身も「おなじやうに」後世のたすけをいただくことができると確信できたに違いありません。だからこそ「上人のわたらせたまはんところには」、それが「たとひ悪道」であるとしても、一緒についていきたいと思えるようになったのです。「人はいかにも申せ」とか「やうやうに人の申候し時も」ということばからは、叡山の同僚僧たちが親鸞の行動についてとかくうわさしていたことがうかがえます。「範宴房(叡山時代の親鸞の呼び名です)はこのごろ吉水の法然上人のところに通っているそうだが、いったい何を考えているんだ」などと眉をひそめて語り合っていたのでしょう。
 これは『歎異抄』第2章の親鸞のことばとぴったり一致します。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。どうしてこんな驚くべきことばが出てくるかというと、「いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみか」だからだと言うのです。どんなふうにしても助かりようのない身であってみれば、法然聖人とともに地獄におちても本望だ、ということです。それが恵信尼の手紙では「世々生々にも、迷ひければこそありけめ」ということばになっていますが、まったく同じ趣旨です。
 「上人のわたらせたまはんところには」どこなりとついていきます、というのは法然上人への全幅の信頼をあらわしているのはもちろんですが、それだけではありません。法然上人のことばを通して聞こえてきた本願名号への全幅の信を表明しているのです。

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