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親鸞の手紙を読む(その119) ブログトップ

第2段本文 [親鸞の手紙を読む(その119)]

(6)第2段本文

 さて常陸の、下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、夢をみて候ひしやうは、堂供養かとおぼへて、東向きに御堂はたちて候ふに、しんがく(試楽で、舞楽の予行のことから、宵祭り)とおぼえて、御堂のまへには、たてあかし(立燭)しろく候ふに、たてあかしの西に、御堂のまへに、鳥居のやうなるに、よこさまにわたりたるものに、仏を掛けまゐらせて候ふが、一体は、ただ仏の御顔にては、わたらせたまはで、ただひかりのま中、仏の頭光のやうにて、まさしき御かたちはみへさせたまはず、ただひかりばかりにてわたらせたまふ。いま一体は、まさしき仏の御顔にてわたらせたまひ候ひしかば、「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と申し候へば、申す人は、なに人ともおぼえず、「あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にて、わたらせたまへ、勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば、「さてまた、いま一体は」と申せば、「あれは、観音にてわたらせたまふぞかし、あれこそ善信の御房(親鸞)よ」と申すとおぼえて、うちおどろきて候ひしにこそ、夢にて候ひけりとは思ひて候ひしか。

 (現代語訳) さて常陸の国、下妻というところの境の郷におりましたときに、夢を見たことがあります。お堂の落慶供養のようで、お堂は東向きに建っているのですが、その宵祭りでしょう、お堂の前には松明が明るく燃えています。その松明の西のお堂の前に、鳥居のようなものがあり、その横木のようなところに仏の絵像がかけられております。そのひとつは、仏のお顔ではなく、仏の頭光のようで、そのお姿は見ることができず、ただ光ばかりが輝いています。もう一体は、まさしく仏のお顔ですので、「これは何の仏でございましょう」と尋ねましたら、どういう人かは定かではありませんが、「あの光ばかりのお方は、法然上人です。勢至菩薩ですよ」と答えられ、「ではもうひと方は」と尋ねますと、「あれは観音菩薩です。あれこそ善信の御房ですよ」とお答えになったところで目が覚めて、あゝ、夢だったと思ったことでした。

 話は変わり、かなり後のことになります。越後流罪が許された後も親鸞一家は京に戻らず、常陸にうつるのですが、下妻というところに住んでいた頃に恵信尼が不思議な夢を見たというのです。

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