SSブログ
親鸞の手紙を読む(その120) ブログトップ

第2段本文のつづき [親鸞の手紙を読む(その120)]

(7)第2段本文のつづき

 第2段のつづきです。一連の話ですので、一気に読みましょう。

 さは候へども、さやう(左様)のことをば、人にも申さぬときき候ひしうへ、尼(恵信尼)がさやうのこと申し候ふらんは、げにげにしく人も思まじく候へば、てんせい(天性)、人にも申さで、上人(法然)の御ことばかりをば、殿に申して候ひしかば、「夢には、しなわいあまたあるなか、これぞ実夢にてある。上人をば、所々に勢至菩薩の化身と、夢にもみまゐらすることあまたありと申すうへ、勢至菩薩は智慧のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせたまふ」と候ひしかども、観音の御ことは申さず候ひしかども、心ばかりはそののち、うちまかせては思ひまゐらせず候ひしなり。かく御こころえ候ふべし。
 されば御りんず(臨終)は、いかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も、御りんず(臨終)にあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候、うれしく候。
 この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世のこといのりまうさせたまひける九十五日のあか月の御示現の文なり。御覧候へとて、書きしるしてまゐらせ候ふ。

 (現代語訳) このようなことは人に話さぬものと聞いておりますし、わたしがそんなことを話したところでまともに受け取ってもらえるものでもないと思い、そのまま人に話すことなく、ただ法然上人のことだけを殿にお話しましたところ、「夢にもいろいろあるが、それは正夢です。上人を勢至菩薩の化身として夢をみることはあちこちでしばしば聞きますし、勢至菩薩はこの上ない智慧の菩薩ですから、それがひかりとして現れたのでしょう」と仰せになりました。観音菩薩のことはお話しませんでしたが、こころの内では、そののちも普通の方ではないと思いつづけてきました。そのようにお心得ください。
 ですから、ご臨終のありようはどうであれ、往生なさったことは疑いありません。また、同じことですが(この意味がよく取れません)、益方(親鸞の息子、有房)も臨終に遇えたことは、親子の契りとはいうものの、ふかく感じ入るところがあり、まことにうれしく思います。
 この文は、殿が叡山で堂僧をつとめておられましたが、山を下りて六角堂に百日参籠され、後世をお祈りされたその九十五日目の明け方に聖徳太子から示されたことばです。ご覧いただきたいと思い、書き記しました。

 最後の三行は、前にふれましたように、追伸部分で、手紙の書き出しの前の余白に書き加えられています。そして「この文ぞ」とは、「行者宿報の偈」であろうと推定されています。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その120) ブログトップ