SSブログ
親鸞の手紙を読む(その121) ブログトップ

御りんずは、いかにもわたらせたまへ [親鸞の手紙を読む(その121)]

(8)御りんずは、いかにもわたらせたまへ

 最後まで読みまして、恵信尼がどうして覚信尼に親鸞にまつわる昔話を語り聞かせようとしたかがあらためてはっきりします。娘が父の「御りんず」の様子に不安を抱いているらしいことに、恵信尼は「あなたの父上はそんじょそこらの普通の人ではありません(うちまかせては思ひまゐらせず)」から、「御りんず」がどのようなものでありましても、往生されたことは疑いありませんと安心させているのです。父上は、若い頃、六角堂で観音菩薩の化身である聖徳太子から夢のお告げをうけたことで法然上人にお会いすることができたのですし、またわたし自身も父上が観音菩薩の化身であるという夢をみたのです、と思い出話をすることにより、親鸞が特別な人であることを印象付けようとしているのです。
 どうやら覚信尼は臨終のありようによって往生浄土ができるかどうかが決まるという伝統的な往生観の持ち主であったようです。臨終の正念で往生がきまるという見方は長い伝統をもつものですが、とりわけ源信の『往生要集』が決定的な影響を与えました。源信自身、二十五三昧会というグループを組織し、臨終に正念を保ち極楽往生できるよう互いを支えあうという互助の仕組みを作ったのです。このような伝統は覚信尼のなかにも脈々と流れていたのでしょう、父の臨終の様子が気になって、それを母・恵信尼に問い合わせたものと思われます。
 さてしかし、父・親鸞こそ、そのような往生観のコペルニクス的転回をなしとげた人であることをこれまで見てきました。第1回に読みました『末燈鈔』第1通にこうありました、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」と。これまでは臨終が人生の正念場(このことばは「臨終の正念」から由来します)であると思われてきましたが、そうではなく信心のさだまるときこそ「前念命終、後念即生」(善導)の時であることが明らかにされたのです。臨終ではなく、信心が時の前後を分かつ決定的瞬間(時剋の極促)であるということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その121) ブログトップ