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勢至菩薩の化身と [親鸞の手紙を読む(その122)]

(9)勢至菩薩の化身と

 ここで化身という思想について考えておきましょう。
 初期仏教では仏を色・形をもつ「色身」(釈迦その人です)と色も形もない「法身(ほっしん)」(釈迦の悟った真理です)に区別するだけでしたが、大乗仏教において菩薩思想が展開していくなかで、「法身」・「報身(ほうじん)」・「応身」・「化身」の四身(あるいは「法身」・「報身」・「応身」の三身)に分けられるようになります。法身とは仏の悟りそのものであり、報身とは因位の誓願が成就した仏身のことで阿弥陀仏がその代表です。応身は穢土の衆生に応じて現れ出た仏身で釈迦仏がその典型であり、化身とは衆生の根機によってさまざまな姿をとる仏身をさします。
 化身の考え方はさらに菩薩の化身や高僧の化身というように膨れ上がっていき、たとえば法然上人は道綽や善導の化身であるとされるようになります。
 さて恵信尼は娘への手紙において、法然上人は勢至菩薩の、そして親鸞は観音菩薩の化身であると語っており、親鸞も法然上人が勢至菩薩の化身であることを当然のこととして認めています。われら現代人は「あの人は観音菩薩のような人だ」と言うことはあっても、それはあくまで比喩の話であり、文字通りに観音の「化身」として受けとめる感覚はなくなりましたが、親鸞の時代にはそれがまざまざと生きていたようです。仏・菩薩と人との距離が近かったということでしょう。
 これをしかし単に時代の推移とすることなく、信心の問題としてとらえ直すことが必要ではないでしょうか。化身として受けとめる感覚は信心そのものであり、化身の感覚が希薄になったということは信心が希薄になったということではないかということです。ここで「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」という対を持ち出しますと、ぼくらは「世界にひとつだけの花」としての「わたしのいのち」を生きています。それは何ものにも代えがたい「いのち」であり、それあっての物だねとしての「いのち」です。しかし「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいいのち」であるということ、ここに化身思想の源があるのではないでしょうか。

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