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親鸞の手紙を読む(その125) ブログトップ

本文つづき [親鸞の手紙を読む(その125)]

(2)本文つづき

 つづく第2段です。

 さてこれこそこころえぬことなれ。念仏の信心よりほかには、なにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう(衆生)利益のためにとて、よみはじめてありしを、これはなにごとぞ、自信教人信(じしんきょうにんしん)、難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと思ひかへして、よまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。さて、臥して四日と申すあか月、まはさてあらんとは申すなり」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせたまひて候ひしなり。
 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫(さぬき)と申すところにて、よみはじめて、四五日ばかりありて思ひかへして、よませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。
 信蓮房は、未(ひつじ)の年、三月三日の昼生れて候ひしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候ふ。

 (現代語訳) 「これはいったいどうしたことだろう、念仏を信じるよりほかに、何がこころにかかるのだろうとよくよく考えてみたら、もう十七八年も前になるだろうか、もっともらしく三部経を千回読むことで衆生利益のつとめを果たそうと思ったことがあった。しかし、これは何ごとか、善導大士が「自信教人信、難中転更難(みづから信じ、人を教えて信ぜしむること、難きが中にうたたさらに難し)」と言われたように、みづから信じて人を教えて信ぜしむることは、まことに仏恩を報ずることになると信じながら、名号のほかに何がたりなくて経を読もうとするのか、と思い返して、読むのをやめたのだった。今もなおそんな思いが残っているのか、と思い、人の執心というもの、自力のこころというものはよくよく考えてみなければならないものだと、と思い直してからは、もう経を読むことはなくなった。そんなわけで、寝込んで四日目の明け方に『今もなおこんなふうなのか』と言ったのだよ」と言われて、まもなく大汗をかいてよくなられました。
 もっともらしく三部経を千回読もうとされたのは、信蓮房(親鸞と恵信の息子、明信)が四つのときで、武蔵の国でしょうか、上野の国でしょうか、佐貫というところで読みはじめ、四五日ばかりして、思い直して読むのをやめ、常陸へと向かわれました。
 信蓮房は未の年(承元五年、1212年)の三月三日の昼に生まれましたので、今年は五十三でしょうか。

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