SSブログ
親鸞の手紙を読む(その126) ブログトップ

死者の供養 [親鸞の手紙を読む(その126)]

(3)死者の供養

 恵信尼が30年以上も前の出来事をくっきりと覚えているのは、それがよほど印象深かったからでしょう。親鸞が59歳のときに風邪で寝込み、その四日目の明け方に(のちに八日目と訂正されますが)、「まはさてあらん」とうわごとのようにつぶやいた。恵信尼から「どうされましたか」と問われたのに対して、寝込んでずっと『大経』を読む夢を見ていて、その一文字一文字が「きららかに、つぶさに」見えたのだ、と答えた。そして親鸞はその夢を機縁として十七八年前のことを想い出し、それを恵信尼に語り出します。越後から常陸に向かう旅の途中のこと、「武蔵のくにやらん、上野のくにやらん、佐貫と申すところ」で何か不幸な出来事(おそらく大飢饉)に遭遇したのでしょう、「衆生利益のために」浄土三部経の読誦をはじめた。それも三部経を千部よむという。
 しかし読みはじめて間もなく親鸞は思います、「これはいったいどうしたことだ」と。「名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや」という問いが突き付けられたのです。人が亡くなったとき、読経をして死者を供養しようと思うのは僧としてごく当たり前のこころの動きです。人々はそれを求め、僧はそれに応える。これはずっと前から繰り返され、いまも何も変わりません。しかし親鸞は「いったいオレは何をしているのだ」と思う。思い起こされるのが『歎異抄』第5章のあのことばです、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」と。この文では「父母の孝養のため」であり、また読経ではなく「念仏申す」ことが問題となっていますから、ぴったり重なるわけではありませんが、ことの本質は同じです。
 「衆生利益のため」であれ「父母の孝養のため」であれ、死者の供養のために読経なり念仏するというのはどういうことか、これが問われているのです。「名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや」と言われるのは、念仏することと読経することが単純に比較されているわけではありません。念仏するだけでよく、読経をする必要はないというのではなく、念仏にせよ、読経にせよ、それを死者の供養のためにすることが問題とされているのです。
 
タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その126) ブログトップ