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みづから信じ、人を教えて信ぜしむ [親鸞の手紙を読む(その127)]

(4)みづから信じ、人を教えて信ぜしむ

 親鸞はそこで善導の「自信教人信(みづから信じ、人を教えて信ぜしむ)」を持ち出します、それが「まことの仏恩を、報ひたてまつる」ことであると。そのことを忘れて、もう骨身に染みついてしまった習慣のように「衆生利益のために」読経することを考えてしまう己を見つめているのです。仏恩をこうむり南無阿弥陀仏に遇うことができた、その喜びが南無阿弥陀仏の声となる。そしてそれが取りも直さず「人を教えて信ぜしむ」ことであるということ、これが「自信教人信」です。それ以外に「なにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや」とみずからに問うているのです。
 ここであらためて「自信」と「教人信」の関係について確認しておきたいと思います。ぼくらはともすれば、まず「みづから信じ」、そしてその上で「人を教えて信ぜしむる」というように、この二つを切り離して考えます。「みづから信じる」ことが確立した後に、はじめて「人を教えて信ぜしむる」ことがスタートするというイメージです。これは往相と還相の関係も同じで、まず往相があり、しかる後に還相があると受けとるのが普通です。往相とは穢土から浄土へ往く相で、還相は逆に浄土から穢土に還ってくる相ですから、まず往き、そしてその上で還るのは当たり前と考えられます。まず往かなければ、どのようにして還ることができるのかと思うのです。
 さてしかし「みづから信じる」ことと「人を教えて信ぜしむる」ことを切り離すのは自力の発想です。
 何かを人に教えようとしたら、それに先立ってそれを自分のものとしていなければなりません。自分が了解していないことは人に教えられません。この発想はごく自然なものですから、それを弥陀の本願にも当てはめ、まず自分が本願をゲットして、その上ではじめてそれを人に教えることができると考えてしまうのです。しかし本願は自分がゲットするものではありません、逆に本願が自分をゲットするのです。あるとき本願にゲットされてしまっている自分を見いだす、これが信心です。さて、このように本願にゲットされたことに気づくのが「みづから信じる」ことであるなら、それはもう「人を教えて信ぜしむる」ことと別ではありません。

タグ:親鸞を読む
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