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すゑとほりたる大慈悲心 [親鸞の手紙を読む(その128)]

(5)すゑとほりたる大慈悲心

 自信は教人信と別ではなく、自信がそのまま教人信ということですが、さてしかしこれは分かりづらい。
 まず自信、その上で教人信というのは分かりやすいですが(なぜなら、それは日常の自力の世界のことですから)、「みづから信じる」ことが、そのままで「人を教えて信ぜしむる」ことというのはどういうことか。ここでまたもや『歎異抄』を参照したいと思います。今度はその第4章の「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」という一節です。「聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり」というのはよく分かる。ところが「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」ときますと、「うん?」となります。「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」とはどういうことか。
 『歎異抄』第4章を誤解させるもととなるのが「いそぎ仏になりて」という一句です。仏になるのはいのち終わってからのことでしょうから、文字通りに受け取りますと、慈悲のはたらきは来生のこととなり、話はまったく間延びしたものになってしまいます。今生では如何ともしがたいから、すべて来生に先送りということになりますが、親鸞はそんなことを言ったのでしょうか。そうではなく、「念仏して、いそぎ仏になりて」というのは、本願に遇うことができて念仏する身となることは、すでに「ほとけとひとしく」なることだと言っているに違いありません。そして、本願を信じ念仏して仏とひとしい身になることが、取りも直さず「すゑとほりたる大慈悲心」であると言っているに違いありません。
 本願に遇えたことを喜び念仏している姿が、それを見る誰かにとって「すゑとほりたる大慈悲心」になっているということです。
 「衆生利益のため」に読経することに戻ります。この僧としての当たり前のこころの動きに親鸞は「人の執心、自力のしん」を見たのでした。それは「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことに他なりません。人が思いもかけない災難に遭い、悲嘆にくれているのを見たとき、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」こころが動くのは人情としてごく自然であり、また尊いものであると言わなければなりません。しかし親鸞という人はそこに「人の執心、自力のしん」を見てしまうのです。

タグ:親鸞を読む
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