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ねばならない [親鸞の手紙を読む(その130)]

(7)ねばならない

 カントは、純粋に「ねばならない」という意識からなされた行為を道徳的に善であると言います。純粋にと言いますのは、そこに「何かのために」という要素が一切含まれていないということです。たとえば嘘をつかないことも、嘘をついたら人から信用されなくなるからと思ってのことだとしますと道徳的に善であるとは言えません。ただ純粋に「嘘をつくべからず」と理性が命じるがゆえに嘘をつかないのが道徳的に善です。人に親切にすることも、それによって世間からよく見られようとしているとしますと、それは不純な親切であり、ただただ「人に親切にしなければならない」と理性が命じるから人に親切にすることが道徳的に善であるということです。
 親鸞が「佐貫と申すところ」で三部経の読経をしようとしたのも、純粋に「ねばならない」という意識からでしょう。そのことで人の称賛をえようとか、そうすることで何かいいことが返ってくるだろうとかといった思惑からではなく、ただ僧としてそう「しなければならない」という気持ちであったに違いありません。ですからこれは明らかに善であり、道徳的には申し分のないことと言えますが、しかし親鸞はこれを「自力のしん」であると言います、「わが身をたのみ、わがこころをたのむ」(『一念多念文意』)ことであると。ここに道徳と宗教(念仏)の違いがはっきり顔を出しています。
 さて、念仏は「ねばならない」の彼岸にあるとしますと、「佐貫と申すところ」でとてつもない惨状を目の当たりにしたとき、何をすることもなく、ただ通り過ぎることになるのでしょうか。そんなことはありません。何度も言いますように、困っている人、悲しんでいる人が目の前にいるとき、その人を助けてあげたいと思うのはごく自然のことです。そして、それが自然であるということは、そこには「ねばならない」という意識が現れていないということです。自分が「しなければならない」と思ってするのではなく、何か見えない力に押されるようにして身体が自然に動くということです。気がついたら、そうしていたということです。

タグ:親鸞を読む
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