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護られている [親鸞の手紙を読む(その133)]

(10)護られている

 親鸞の言う「しるし」も同じです。「佐貫と申すところ」で三部経を読経しようとしたところ、「おまえは何をしているのか」という声が聞こえ、「名号のほかには、なにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや、と思ひかへして」読経をやめたというのは、ソクラテスが何か国政に携わろうとすると、それを差し止めるダイモンの声がして、政治に関与してこなかったのと同じことです。ソクラテスがこのダイモンの声に護られてきたように、親鸞も何か不思議な「しるし」に護られていると言えます。
 さて道徳のことば・「ねばならない」は、それぞれの状況においてどう行動するか、欲望のままに流されることなく、自ら判断することを求めます。その際もちろん理性の導きに従うのですが、理性は一般的な規範しか示してくれませんから、日々の生活の中で具体的にどう行動するかは自分でそのつど決断していくしかありません。これが「理性的であれ」、「自由であれ」という道徳の命令で、カントの言うように、この命令に従うところに人間の尊厳があることは紛れもありません。ただ自由の足下には「無」が広がっています。まったく何もないところに新しく道を拓いていくのが自由ということですから、自由には寄る辺なき不安が伴います。
 一方、念仏のことば・「しるし」はどうか。本願に遇うことができた人にはある「しるし」が現われ、それに護られるようになるということです。その「しるし」は日々の生活において、「こうせよ、ああせよ」と指図するわけではありません。もしそうでしたら、念仏の人は何か見えない力に操られる木偶の坊にすぎなくなります。そうではなく、さまざまな問題にぶつかっては、こうしようか、ああしようかと自ら考えるのは道徳の人と何ら変わるところはありません。しかし念仏の人は「しるし」に護られているという深い安心感があります。その「しるし」はときに姿をあらわし、「おまえは何をしているのか」と声をかけてきます。そのようにして護られているという深い安心があるのです。

                (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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