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『教行信証』精読(その2) ブログトップ

第1段の現代語訳 [『教行信証』精読(その2)]

(2)第1段の現代語訳

 名文を汚すようで気が引けますが、いちおう現代語訳しておきましょう。

 ひそかに考えてみますと、思いはかることもできない弥陀の誓願は、渡ることの難しいこの生死の苦海を渡してくださる大船であり、何ものにも遮られることのない弥陀の光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の日光です。さてここに浄土の教えが現われる縁が熟しまして、提婆達多が阿闍世をそそのかして父王殺害という逆悪をおこさせました。そして往生浄土の行(念仏)を受ける機が現われまして、釈迦如来が韋提希夫人に浄土への往生を選ばされたのです。これらのことは、菩薩たちが提婆達多や阿闍世、韋提希などの姿となって、苦しみに沈んでいる衆生をひとしく救おうとされたのであり、また釈迦如来の大悲のこころが五逆罪のもの、謗法のもの、仏に縁なきものを救おうと思われたのです。そういうことから次のことが明らかになります。あらゆる徳がまどかに収まっている弥陀の名号は、どんな悪も徳にしてしまう正しい智慧であり、得がたいがゆえに壊れない信心は、疑いを拭い去り、必ず浄土往生を得させてくれる真理です。ですから浄土の教えは凡夫も修めやすい真実の教えであり、愚かなるものも行きやすい近道です。釈迦一代の教えで、この教えにまさるものはありません。

 短い文の中にこの書物のすべてがコンパクトに詰め込まれていますので、さっと読んだだけではすんなり頭に収まってくれません。その意味をしっかり了解できるのは全体を読み通したあとになるでしょうが、ともかくここで親鸞が言わんとしていることをできる限り分かりやすく読みほぐしていきたいと思います。この第1段をさらに三つの部分に分けることができます。
 まずは冒頭の一文、「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり」ですが、「ひそかに(竊)」は「潜かに」に通じ、こころの大海に深く沈潜して、ということでしょう。「難思の弘誓」とは言うまでもなく弥陀の本願のことですが、それは思いはかることができないと言います。『唯信鈔文意』に「こころもおよばれず、こともたへたり」ということばが出てきますが、弥陀の本願は思い及ぶことができず、ことばにもしがたいということです。

タグ:親鸞を読む
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