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難度海を度する大船 [『教行信証』精読(その3)]

(3)難度海を度する大船

 「こころもおよばれず、ことばもたへた」弥陀の本願を、それでも何とかことばにしようとして、「難度海を度する大船」(これは親鸞の独創というわけではなく、古くから言いならわされてきました)という譬えがもちいられます。難度海とは、度すること、すなわち渡ることの難しい海ということで、われらの人生、生死の苦海をさします。われらの人生を難度海あるいは苦海とみるのはすでにひとつの気づきであり、その気づきのない人には難度海とか苦海と言われても、そうだろうかとなります。そりゃ生きている間には苦しみも悲しみもあるが、それを補って余りある楽しみや喜びがあるではないか。どうしてそんなに悲観的な見方をするのか、と。
 ここで釈迦に登場してもらいましょう。釈迦の教えを要領よくまとめたものに「四諦(四つの真理)」がありますが、その第一が苦諦、すなわち、「生きることはすべて苦しみである(一切皆苦)」ということです。その苦しみの代表が生・老・病・死の四苦です(生とは生きることではなく、この世に生まれること)。ぼくは若い頃、仏教に強く惹かれながら、でもその第一歩のところで呑み込みにくいものを感じていました。それがこの一切皆苦で、なるほど人生には苦が多いが、でも楽もあるのではないか、すべてが苦であるというのは言い過ぎではないかと思ったのです。
 これは、一切皆苦とは客観的な事実ではなく気づきの事実であるということを意味します(客観的な事実とはすべての人に認められることであり、それに対して気づきの事実は気づいてはじめて認められ、気づかない人にはどこにも存在しません)。若いぼくにはまだその気づきがなかったのですが、しかし気づいてみますと人生は紛れもない難度海であり苦海です。その海はただ大きいだけでなく、つねに暴風駛雨にさらされ、とても小さな船では渡れそうにありません。ぼくらは自分という船を頼りに人生を渡ろうとしていますが、そんなちっぽけな船ではひとたまりもなく顛覆してしまいます。
 そこで弥陀の本願は「難度海を度する大船」であり、安心して生死の苦海を渡ることができると言われるのです。

タグ:親鸞を読む
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