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無明の闇 [『教行信証』精読(その4)]

(4)無明の闇

 次に「無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり」とあります。先の「難思の弘誓は」と対になって「無礙の光明は」と言われますが、ここは序文ですので、当然のことながら語句の説明はまったくなく、はじめて読む人にはこの両者がどう関係するかは分かりません。後の解説を待ってはじめて両者は同じものを指していることが了解できます。弥陀の本願は、あるときは名号(「南無阿弥陀仏」のこえ)となり、あるときは光明(智慧のひかり)となってわれらに届けられるのですから、難思の弘誓は、取りも直さず、無礙の光明であると言って差支えありません。
 さてこの光明は無礙、すなわち「障りがなく、さまたげがない」と言われます。普通の光は遮蔽物があればそこで止められますが、弥陀の光明はどんな障害物があってもそれに遮られるようなことはないと言うのです。この光明は目に届く光ではなく、こころの奥深いところに差し込むからです。そしてこの光は「無明の闇」を破るとされますが、「無明の闇」もまた古来しばしば用いられてきたメタファで、煩悩に覆われていることがこのことばで譬えられます。無明とは縁起の道理を知らないことをさし、愚痴とも呼ばれますが、これがあらゆる煩悩の根源であるとされます(貪りや瞋りは無明に淵源します)。また十二支因縁の第一支であり、苦の根本原因ということです。
 先ほど「難度海」は客観的事実としてあるわけではなく気づきの事実であると言いましたが、「無明の闇」も同じです。無明の闇は、それに気づいてはじめて姿をあらわすものであり、気づかない人にはそのようなものはどこにもありません。気づいていない人は自分が無明の闇のただなかにあるなどと思いもしません。何でも知っているわけではないが、まあ世間のことはおおよそ分かっているつもりでいます。さてしかし無明の闇にありながら、それに気づいていないことがもっとも深い闇です。自分が無知であることに無知であるのが正真正銘の無知です。それに対して、自分が無知であることに気づくのがソクラテスの「無知の知」で、それがわれらに許された最高の知です。

タグ:親鸞を読む
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