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闇を破す [『教行信証』精読(その5)]

(5)闇を破す

 さて、弥陀の光明は「無明の闇を破する慧日」であると言われますが、この光がこころに差しこむと、こころは光に満たされ、無明の闇は雲散霧消してしまうのでしょうか。無明の闇の世界から悟りの光の世界へと一変してしまうのでしょうか。もしそうでしたら、弥陀の光明が差しこむことにより、無明の凡夫が悟りの仏になるということになりますが、残念ながらそんなことは起こりません。われらは依然として無明の闇のなかにあります。しかしこれまでと決定的に異なるのは、無明の闇のなかにあることに気づいていることです。それまでは無明の闇にありながら、それに気づいていませんでしたが、いまや弥陀の光明によりそれに気づくことができたのです。そして、自分は無明の闇のなかにあると気づくことは、すでに無明の闇からなかば抜け出ることです。
 弥陀の光明によりはじめて無明の闇に気づくということに思いを廻らしましょう。ぼくらは「ここは闇である」ことを知るためには、それに先立って光を知っていなければなりません。光をまったく知らなければ、闇を知ることもありません。ぼくがよくつかう例ですが、生まれてこのかた光を知らずに過ごしてきた深海魚は、自分が闇の世界にいることを知りません。何かの事情で光を知ることになった深海魚だけが、「あゝ、オレは闇の世界に生きていたのか」と気づくことができるのです。同じように、弥陀の光明がこころに差しこんではじめて、「あゝ、これまでずっと無明の闇に閉じ込められていたのか」と気づくのです。無明の闇の気づきは、弥陀の光明の気づきとひとつであるということ、無明の闇に気づいたときには、すでに弥陀の光明の気づいているということです。
 弥陀の光明に遇うまでは、ただひたすら無明の闇のなかにあるだけでしたが、弥陀の光明に遇ったいまは、無明の闇のなかにありながら、同時に弥陀の光明に気づいています。そして弥陀の光明に気づくというのは、弥陀の光明に包みこまれていることに気づくことです。これが、無明の闇に気づくことは、すでに無明の闇からなかば抜け出ているということです。なかば抜け出すだけですから(まだ無明の闇のなかにいるのですから)、「仏になる」わけではありませんが、でも「仏とひとし」(親鸞は真実の信心の人のことをしばしばこう表現します)くなることです。

タグ:親鸞を読む
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