SSブログ
『教行信証』精読(その8) ブログトップ

悪を転じて徳をなす [『教行信証』精読(その8)]

(8)悪を転じて徳をなす

 さて最後の部分、「ゆゑにしんぬ」以下の文に進みます。
 あらためてこれまでを振り返っておきますと、最初に、弥陀の本願は「難度海を度する大船」であり「無明の闇を破する慧日」であると述べ、次に、阿闍世の父王逆害を機縁として釈迦により弥陀の本願が韋提希夫人に説かれることになったことを述べてきたのですが、最後に、だからこそ「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳をなす正智、難信金剛の信楽はうたがひをのぞき証をえしむる真理なり」と結論します。これまでは「難思の弘誓」すなわち弥陀の本願について言われてきましたが、ここではそれが「円融至徳の嘉号」すなわち名号と言われ、さらには「難信金剛の信楽」すなわち信心が取り上げられます。本願と名号と信心がもう融通無碍にひとつのものとして語られているのです。
 これまた後の解説(行巻と信巻)を待たなければなりませんが、先回りして言っておきますと、弥陀の本願(「一切衆生を往生させることができなければ仏にならない」)は南無阿弥陀仏の六字(名号)となって人々に届けられるのですから、本願と名号は二つにして一つです(行巻)。そして、本願名号が人々に届いたこと、われらの側から言いますと、われらが本願名号に遇うことができたことが信心に他なりませんから、本願名号と信心もまた別ものではありません。信心とは本願名号にわれらがつけ加える何かではないということ、われらに届いた本願名号が、そのままで信心に他ならないということです(信巻)。
 さて「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳をなす正智」と言われます。本願名号は、それに遇うことができますと、それまでの悪が転じて徳となるというのです。のちに信巻で親鸞は金剛の信心をえたものが現生で受ける利益を十あげますが(現生十益)、そのひとつに「転悪成善の益」があります。悪が転じて徳となるといい、善となるというのですが、これはどういうことでしょう。それまで悪人であったのが、本願名号に遇った途端に善人になるということでしょうか。そうではありません、逆に、本願名号に遇うことではじめて悪人になるのです。それまでは自分を悪人などとは思っていなかったのが、本願名号に遇ってはじめて悪人であることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その8) ブログトップ