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悪人の気づきは本願の気づき [『教行信証』精読(その9)]

(9)悪人の気づきは本願の気づき

 前に、無明の闇のなかにありながら、それに気づいていないことがもっとも深い無明の闇だと言いましたが(4)、同じように、悪人でありながら、それに気づいていない人が正真正銘の悪人です。
 それに対して、自分は悪人だと気づいた人は、もうなかば以上悪人ではなくなっています。自分は悪人だと気づいたとき何が起こるかといいますと、言うまでもありません、慙愧の念です。「お恥ずかしい」という思い。そしてこの思いには、これまでの自分とは違う自分にならなければという決意が含まれています。もちろんこう決意したからと言って、これまでの自分から卒業できるわけではありません。これまでと同じような過ちをまた繰り返してしまうでしょうが、でも慙愧の念は消えていませんから、悪人であることに気づいていなかった頃と比べますと、悪の度合いは和らいでいるはずです。
 そして何より、悪人であることの気づき(病気の気づき)は、悪人を救ってくれる本願の気づき(薬の気づき)を伴っています。
 機の深信(「己は度し難い悪人」という思い)があるところには、かならず法の深信(「こんな悪人のために本願がある」という思い)があるのです。「お恥ずかしい」という悲しみは、「あゝ、ありがたい」という喜びを伴っています。『高僧和讃』の「罪障功徳の体となる、こほりとみづのごとくにて、こほりおほきにみづおほし、さはりおほきに徳おほし」という一首は印象に残りますが、罪障という「こほり」が解けて菩提という「みづ」になるのですから、罪障が多いほど、菩提が多いのです。悲しみが深ければ深いほど、喜びもそれだけ大きいということです。
 悪人の気づきと本願の気づきはひとつであるということ。有名な「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3章)はこの深い真理を人の意表を突く逆説的表現で表しています。

タグ:親鸞を読む
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