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痛みに襲われたとき [『教行信証』精読(その11)]

(11)痛みに襲われたとき

 「こちらから獲得する信」はよく分かりますが(それがぼくらの普通の信だから)、「如来より賜りたる信」とか「むこうから与えられる信」というのが分かったようでよく分からない。
 そこで「賜る」とか「与えられる」ということばを少し言い直してみましょう。「獲得する」を若者ことばで「ゲットする」と言いますから、「こちらから獲得する信」を「こちらからゲットする信」とし、それに対して「むこうから与えられる信」を「むこうからゲットされる信」とすればどうでしょう。こちらから出かけていって、「これだ!」とむんずと掴まえるのに対して、むこうからやってきた本願名号にむんずと掴まえられるということです。気がついたら、もうすでにむんずと掴まえられていたということ、これが本願名号の信心です。
 「むこうからゲットされる」あるいは「掴まえられる」経験として、もっとも分かりやすいのが、あるとき突然痛みに襲われるということです。ぼくは左膝に古傷があり(半月板損傷)、それがあるとき突然、何の前触れもなくズキっと痛みます。どんなときに起るかと、いろいろ考えてみても、そこにまったく法則を見いだすことができません。思いもかけないときにズキっとくるのです。これなどは痛みに襲われるという表現がピタッときますが、ちょうどそのように、あるとき思いもかけず本願名号に襲われゲットされてしまうのです。気づいたら、もうすでにゲットされているのです。
 さて、「こちらから何かをゲットする」場合は、ほんとうにゲットできているのかどうか、ひょっとしたらとんでもない勘違いをしているだけなのかもしれないという疑いがついて回ります。でも「むこうから何かにゲットされた」場合は、ほんとうにゲットされているのかどうかという疑いは意味をなしません。膝が激痛に襲われたとき、ほんとうに痛みに襲われているかどうかという問いは無意味です。もし医者か誰かが「それはひょっとしたら勘違いかもしれないよ」などと言いでもしたら、ぶっ飛ばしてやりたくなります。 
 金剛のように堅い信心は「疑をのぞく」というのはそういう意味です。

タグ:親鸞を読む
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