SSブログ
『教行信証』精読(その13) ブログトップ

序の第2段 [『教行信証』精読(その13)]

        第2回 遇ひがたくしていま遇ふことをえたり

(1)序の第2段

 序の第2段に進みます。

 穢を捨て浄を欣(ねが)ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識(さとり)寡(すくな)く、悪重く障多きもの、ことに如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、かならず最勝の直道(じきどう)に帰して、もつぱらこの行に奉(つか)へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮(ちりょ)することなかれ。

 (現代語訳) この穢れた世を厭い、浄土を願いながら、何を行い何を信じるかに迷い、こころは闇に閉ざされ、もっとも大切なことに無智であり、しかも身に備えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ釈迦の勧めに従い、必ずこのもっとも勝れた道に帰して、もっぱらこの念仏につかえ、ひとえに本願を信じなさい。ああ、如来の本願には何度生まれ変わっても遇いがたく、真実の信心はどれほどの時を経ても得がたいものです。ですから、たまたま如来の本願を信じることができたら、はるかな宿世の縁を喜ぶべきです。もしこのたび疑いの心にとらわれたら、またどれほど長い時間を待たなければならないことでしょう。摂取して捨てないという誓いのことばは何と真実であることか。世に超えて希な真理であることか。これを聞くことができたら、疑いためらうことはありません。

 第1段で、本願名号は「難度海を度する大船」であり「無明の闇を破する慧日」であること、そして釈迦が王舎城の悲劇を機縁として、この本願名号の教えを説かれたこと、だからこそこの教えは「凡小修しやすき真教」であり「愚鈍ゆきやすき捷径」であると述べられました。それを受けてこの第2段で、われら罪障重い凡愚に対して「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」と勧められます。弥陀の招喚と釈迦の発遣の声を「聞思して遅慮することなかれ」と告げられるのです。弥陀の招喚とは「帰りきたれ」の声であり、釈迦の発遣とは「この道をゆけ」の声です。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その13) ブログトップ