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弘誓の強縁 [『教行信証』精読(その14)]

(2)弘誓の強縁

 弥陀の招喚と釈迦の発遣で思い出すのは、善導の「二河白道の譬え」です。水火の二河に阻まれ進退窮まった旅人の前にひとつの白道が忽然と現れます。そのとき河の東岸から「きみただ決定(けつじょう)してこの道をたづねてゆけ。かならず死の難なけん」という声がし、さらに西岸からは「なんぢ一心正念にしてただちにきたれ、われよくなんじをまもらん」の声がします。前者が釈迦の発遣の声であり、後者が弥陀の招喚の声です。釈迦は「ゆけ」と言い、弥陀は「きたれ」と言う。忽然と現れた白道とは弥陀の光明でしょう。一筋のひかりの道が現れた。そして「この道をたづねてゆけ」の声と「ただちにきたれ」の声はどちらも「南無阿弥陀仏」の声です。
 かくして弥陀の光明に照らされ、弥陀の名号の声が聞こえた。これが本願に遇うという不思議な経験です。
 そこで「ああ、弘誓の強縁」という感嘆が親鸞の口からもれます。そしてさらに「多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と続きます。ここに「縁」の思想が顔を出しています。言うまでもありません、釈迦の「縁起」の思想です。何ごとも縁によって起るということ。それ自体として存在するものはひとつもなく、何ごとも他のものとの縦横無尽の繋がりのなかで生起するということです。本願に遇うということも、遠い宿縁によって起った。本願は会おうとして会えるものではありません、思いがけずたまたま遇うのです。そしてこの「たまたま」というのが、遠い宿縁によるということに他なりません。
 この「たまたま」の感覚は親鸞の他力思想の核心にあると言えます。それがいちばん分かりやすい形で出ているのが『歎異抄』第13章で、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなし」とあります。人のなすどんな罪も宿業により「たまたま」なしたものであるということ、また人のなすどんな善もまた遠い宿縁によって「たまたま」なしたにすぎないということです。ぼくらはともすれば「わがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおも」いますが、それはとんでもない思い上がりだということです。

タグ:親鸞を読む
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