SSブログ
『教行信証』精読(その15) ブログトップ

たまたま [『教行信証』精読(その15)]

(3)たまたま

 本願は会おうとして会えるものではなく「たまたま」遇うものだということ、それは本願は「こちらからゲットする」ものではなく、「むこうからゲットされる」ものであるということに他なりません。ときどき、「どうすれば本願にゲットされるのでしょうか」という質問を受けることがありますが、この質問ばかりは何とも答えようがありません。「たまたま」であることに対しては、「どうすれば」という問いは無効です。これはぼくらの無力を突きつけられているようで、いい気持はしないかもしれませんが、反面、「たまたま」と思うことは、生きることを軽やかにしてくれます。
 たとえばぼくが日本人に生まれたことは「たまたま」のことにすぎません。ひょっとしたら韓国人に生まれていたかもしれないし、中国人に生まれていたかもしれません。と思いますと、やれ韓国はどうだ、中国はこうだ、といちいち目くじらを立てることはなくなるのではないでしょうか。またぼくは教師という仕事をしてきましたが、これも「たまたま」のことだと思えば、どうしようもない教師根性から解放されます。おれは教師だから、こうでなければならない、ああでなければならないと踏ん張り、その結果、われもひとも縛ってしまうのですが、「たまたま」教師になったにすぎないと思うことで、「なるようにしかならんさ」と軽やかに生きていけます。
 さて、当たり前といえば当たり前ですが、「たまたま」と思うのは、ことが起ってしまってからのことです。本願に遇ってから、あゝ、これは「たまたま」のことだ、と思うのです。まだ本願に遇っていない人が、「たまたま」遇っていないだけのことだ、と思うことはありません。自分は「たまたま」遇っていないが、あの人は「たまたま」遇うことができたのだとは思わないということです。これは、本願というのは、遇ってはじめて姿をあらわすものであり、遇わなければどこにもないということです。遇ってはじめて「あゝ、たまたま遇った」と思うのであり、遇わなければ、遇わないこともありません。遇うも遇わないもない、何ごともありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その15) ブログトップ