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誠なるかな [『教行信証』精読(その16)]

(4)誠なるか

 「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」に続いて、「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん」とありますが、これも「たまたま行信を獲」たからこそ、「あゝ、遇えてよかった、もし本願に遇うことができていなかったら、どうなっていたことだろう」と思うのであり、まだ行信を獲ていない人は、「しまった、このたび本願に遇うことに失敗してしまったから、これからまた曠劫を経歴することになるのか」と悔しがることはありません。行信を獲たと思わないのはもちろん、行信を獲ていないと思うこともないのですから。その人にとって世の中にとりたてて何ごとも起こっていないのです。
 さてこの段の最後に「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法」という詠嘆がきます。「誠」は「真」に他ならず、弥陀の本願は何と真実であることか、という感嘆ですが、このことばで頭に浮ぶのは聖徳太子のことばとされる「世間虚仮、唯仏是真」です。世間はどこを見回しても虚仮しかないが、仏法だけが真実として光っているということです。拠りどころとなるのは仏法しかないと。親鸞も「摂取不捨の真言、超世希有の正法」を聞くことを得て、あゝ、これさえあればどんな苦海も渡っていけると安堵しています。
 「摂取不捨の真言」と言いますのは、『観無量寿経』に「一々の光明は、あまねく十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」とあるのをさしています。親鸞はこの真言をもとに「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」と詠い、親切にも、「摂取」の字に「摂はものの逃ぐるを追(お)はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と左訓しています(『浄土和讃』)。弥陀の本願は「いやだ、いやだ」と逃げ回るものを追っかけて、むんずと掴まえるというのです。
 このことばに、本願というのは「こちらからゲットする」のではなく、「むこうからゲットされる」のであることが見事に表現されています。

タグ:親鸞を読む
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