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聞思して遅慮することなかれ [『教行信証』精読(その17)]

(5)聞思して遅慮することなかれ

 「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法」という詠嘆のあと、「聞思して遅慮することなかれ」と締めくくられます。
 「聞思」とは「弥陀の本願を聞いて、こころに思いめぐらす」ということですが、これを解説するに際して、しばしば、というよりほとんどすべての場合と言った方がいいと思いますが、「本願の〈いわれ〉を聞き、思いめぐらす」というように述べられます。「いわれ」とは「由来、来歴」ですが、それは、言うまでもなく『無量寿経』に説かれている法蔵菩薩の物語(あえて物語と言いますが、それについてはのちにふれるつもりです)のことです。「法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏のみもとにありて、諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」(「正信偈」)というのが本願の「いわれ」です。
 さて親鸞が「聞思して遅慮することなかれ」というとき、その「聞思」は、本願の「いわれ」を聞いてこころに思いめぐらすということでしょうか。本願の「いわれ」をこころにしっかり受け止め、いつまでもぐずぐず疑うべきではないということでしょうか。そうではありません。本願の「いわれ」を聞くのではなく、本願そのものを聞き、それをこころに温めるということです。すぐ前にありましたように、本願を聞くとは「摂取不捨の真言」を聞くことですが、それは「むかし法蔵菩薩が云々」という法蔵菩薩についてのお話を聞くのではなく、法蔵菩薩自身の声を聞くことです、「どれほど逃げ回ろうと、かならず追わえとって、おまえを救おう」という声を。
 念のためですが、こんなふうに言うのは、本願の「いわれ」を蔑ろにしているのではありません。ぼくらが本願に遇うのに、この本願の「いわれ」について説かれている『無量寿経』を通るほかありません。釈迦が弥陀の本願について懇切丁寧に説いてくれている『無量寿経』なくしてぼくらが本願に遇うすべはありません。その意味で親鸞は「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」(ここで「真実の教」というのは、真実の教えを説いている経典の意味です)と「教巻」で述べています。ただ、本願の「いわれ」を聞くのと、本願そのものを聞くのとはまったく別であるということ、これを忘れることはできません。

タグ:親鸞を読む
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