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真理そのものと真理を伝えることば [『教行信証』精読(その18)]

(6)真理そのものと真理を伝えることば

 本願そのものと本願の「いわれ」はまったく別であるということを、真理そのものと真理を伝える(語る)ことばとの関係で考えてみたいと思います。
 先回の終わりに、「こちらからゲットする」ことと「むこうからゲットされる」ことを対比しましたが(これが自力と他力の違いです)、それを使いますと、本願はぼくらが普通に真理と呼んでいるもののように「こちらからゲットする」真理ではなく、「むこうからゲットされる」真理です。本願は「こちらからゲットしよう」としても、頑張れば頑張るほど遠ざかっていきますが、ところがあるときとつぜん「むこうからゲットされている」ことに気づく。これが「賜りたる信心」と言われることです。さて、いま真理そのものと真理を伝える(語る)ことばの違いを考えようというのですが、この真理と言いますのは、「こちらからゲットする」普通の真理ではなく、本願のように「むこうからゲットされる」真理であるということをまず確認しておきたいと思います。
 あるときとつぜん真理に「むこうからゲットされる」ことがあります。これは名状しがたい経験で、親鸞ならば「こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)と言うところでしょう。これが真理そのものに遇うということです。さて、この経験がいかに「こころもおよばれず、ことばもたへた」ものであるとしても、何とかしてそれをことばとして人に伝えたいと思う。釈迦もはじめは己の悟りについて語ろうとしませんでしたが(とても伝えられるとは思えなかったのでしょう)、梵天の勧請によりようやく人々に語りはじめたと言われます。初転法輪ですが、これは「こころもおよばれず、ことばもたへた」真理にことばを与えるということです。人々はそのことば(真理についてのことば)を聞くわけですが、それは真理そのものに遇うこととはおよそ別のことです。
 本願を聞くというのは、真理そのものに遇うことです。それに対して本願の「いわれ」を聞くというのは、真理について語られたことばを聞くことです。両者はまったく別のことであることがお分かりいただけるでしょう。

タグ:親鸞を読む
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