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経・論・釈の引用 [『教行信証』精読(その20)]

(8)経・論・釈の引用

 はじめて『教行信証』を読んだとき、そのほとんどが経・論・釈の引用で、親鸞自身のことばはその谷間に埋もれてしまっているのを見て、これは一体どういう書物だろうと感じたことを想い出します。普通の書物は、自説を述べるために、その裏づけとして他から引用するだけなのに、この書物は教・論・釈の引用が中心となっていて、自説らしきものがほとんどないというのは、書物という名に値しないのではないかという感覚です。しかし、これは親鸞の思いがまったく分かっていなかったということです。
 もう一度「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」を持ち出しますと、前者は「日々新た」であり、「これこそ自分が発見した新しい真理である」と主張するために書物が著されます。ところが後者は「天が下に新しきものなし」(『旧約聖書』)であり、真理はひとつしかありません。ただ、それにゲットされた人が、それをどう語るかはそれぞれに特徴があり、そこにおのずと個性が現れます。親鸞が語ろうとしているのは言うまでもなく後者の真理です。
 親鸞は自分がゲットした新しい真理を語ろうとしているのではなく、自分がゲットされたただひとつの真理を語ろうとしているのです。そしてその真理はもうすでに多くの人たちによってそれぞれに語られてきています。親鸞自身は法然上人が語ったことばを通して、ただひとつの真理にゲットされたのですが、法然上人もまた善導大士が語ったことばを通して、ただひとつの真理にゲットされたのです。そのあたりの消息が『歎異抄』第2章に記録されています。
 「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」と。親鸞は「詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし」と言いますが、彼にとって弥陀の本願という真理はこのように人々の手でリレーされていくものなのです。親鸞もまたその走者の一人としてリレーに参加するだけであり、すでにさまざまに語られてきた本願の真理について、その「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」だけなのです。

タグ:親鸞を読む
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