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遇ひがたくしていま遇ふことをえたり [『教行信証』精読(その21)]

(9)遇ひがたくしていま遇ふことをえたり

 親鸞は「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と言いますが、これまでも折にふれて指摘してきましたように、親鸞浄土教(それは本願というただひとつの真理についての親鸞自身の語りです)にとって「遇ふ」ということばと「聞く」ということばが重要な鍵となります。本願は遇うものであり、聞くものであるということです。
 まずは「遇う」ことから。これまで繰り返し「むこうからゲットされる」という言い方をしてきましたが、これがまさしく「遇う」ということです。むこうからやってきた何かに思いがけず遇い、それに鷲づかみされるということ。それに対して、誰かに「会う」場合は、まずもって自分でその手はずを整えなければならず、その上で、その人との会見を「こちらからゲットする」のです。
 本願はそのようにこちらから会うのではなく、ばったり遇うのであるということ、ここに本願の本質があります。
 すぐ頭に浮ぶのは天親『浄土論』の「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うてむなしくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」という文言です。本願(力)はひとたび遇うことができさえすれば、もう功徳の大宝海に入ることができるというのです。ところで親鸞は本願に「いま」遇うと言います。これは、この文を書いたそのときに遇ったということではないでしょう。
 はじめて遇ったのはずっと前のはずですが(後序に「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行をすてて本願に帰す」と書いていますから、それは親鸞29歳のときです)、しかし「いま」遇うと言う。それは「永遠のいま」と言うべきでしょう。時間のなかに永遠がふいっと姿を現したとき、それが「いま」です。それは建仁辛の酉の暦でもあり、『教行信証』の序を書いている時でもあり、本願に遇うのはいつでも「いま」でしかないのです。

タグ:親鸞を読む
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