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「いま」と「すでに」 [『教行信証』精読(その23)]

(11)「いま」と「すでに」

 本願に遇うことについては「いま」と言われ、本願を聞くことは「すでに」と言われます。何げなく言われたのでしょうが、でもこの言い回しから、本願に遇うということ、本願を聞くということの本質を垣間見ることができます。本願に「いま」遇うというとき、その「いま」は「永遠のいま」であると述べましたが、本願を「すでに」聞くということは、本願を聞くのは「もうすでに聞いてしまった」というかたちでしかないということ、「これから聞く」ことはないということを意味します。それは、本願は「こちらからゲットする」ものではなく、「むこうからゲットされる」ものであることからおのずと明らかになります。
 「こちらからゲットする」のでしたら、「もうすでに」ゲットした場合もあれば、「これから」ゲットすることもあります。でも「むこうからゲットされる」ことは、ゲットされてはじめてそのことに気づくのです。ということは、まだゲットされていない人は、ゲットされていることがないのはもちろん、ゲットされていないこともありません。したがって「これから」ゲットされると思うことはありません。すでにゲットされた人が、まだゲットされていない他の人について、「これから」ゲットされるに違いないと言うことはありますが、まだゲットされていない本人が「これから」ゲットされると思うことは原理的にありえないのです。
 本願に遇うのは「いま」であり、本願を聞くのは「すでに」であるとしますと、「いま」とは実は「すでに」であり、「すでに」は実は「いま」であるということです。本願に遇ったのが「すでに」過去のことであっても、「いま遇った」と言われるのは、「いま」とは実は「すでに」ということであり、本願を聞いたのが「いま」であっても、「すでに聞いた」と言われるのは、「すでに」とは実は「いま」ということであることを意味します。本願に遇う「いま」は「永遠のいま」であるということは、それは「悠久の過去」、どんな過去よりさらに過去であるということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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