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往相と還相 [『教行信証』精読(その27)]

(2)往相と還相

 浄土真宗ということばは親鸞を宗祖とする一つの宗派をさすのが普通ですが、親鸞自身が浄土真宗と言うときは、法然上人が伝えてくださった浄土の真実の教えという意味です。親鸞にとって真実の教えはただひとつであり、自分としてはただそれを正しく受け継ぐだけで、何か新しい教えや宗派を開こうなどという気持ちは微塵もありません(法然の浄土宗に取って代わる新しい教えや宗派を意識的に打ち出そうとしたのは、親鸞のひ孫にあたる覚如です)。
 さて教巻の冒頭に、したがって本文の冒頭ということですが、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と一切の説明抜きで宣言されます。
 まず往相・還相ということばは曇鸞が『浄土論註』のなかでつかっているもので、往相とは浄土へ往く相(すがた)を、還相とは菩薩として穢土に還り、有縁の衆生を済度する相(すがた)をさします。ですから自利の相と利他の相と言っても同じです。救いと言うとき、みずからが救われていく相(これが往相、自利です)と同時に、他の衆生を救う相(これが還相、利他です)があるということです。自分だけの救いはなく、他の衆生とともに救われるしかないというのが大乗の菩薩思想です。
 次に大事なことは、親鸞が回向と言うとき、例外なく如来の回向であるということです。往相も還相もみな如来の回向(如来からの賜物)であるということ、これを忘れないようにしたいと思います。われら自身が救われるのも、他の衆生を救うのも、みな如来の力によるということですが、さてしかし、みずからが救われる往相と、他の衆生を救う還相とはどのような関係になっているのだろうという疑問がうかびます。「往く」と「還る」ということばがつかわれていますから、まず往相があり、しかる後に還相があるのだろうと思うのが普通ですが、はたしてそれでいいのでしょうか。
 まずわれら自身が浄土へ往生させていただき、その後に(死んだ後に?)還相の菩薩として穢土へ還ってきて衆生済度の仕事をさせていただく。この理解でいいのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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