SSブログ
『教行信証』精読(その28) ブログトップ

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり [『教行信証』精読(その28)]

(3)それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり

 そんな思いをよそに、「往相の回向について真実の教行信証あり」と話が先に進んでいきます。そして「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」とつづきますから、読む側としては、「そうか、まずは往相の教行信証について述べられるのだな。そしてのちに還相の教行信証が話題とされるのだろう」と予想するのですが、先の目次にありましたように、教・行・信・証の各巻のあとは、真仏土・化身土の巻があるのみで、還相が取り上げられそうにありません。どうなっているのだろうと読み進めますと、「証巻」の後半にきて還相が登場します。
 かくして往相と還相の関係についてはますます疑問が膨らみますが、いまその問題を取り上げることはできません。課題として残したまま、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」という一文について考えていきましょう。ここで「真実の教」といいますのは「真実の教が述べられた経典」の意味で、それは『大無量寿経』だというのです。仏法が説かれている経典は小乗・大乗それぞれ無数にありますが、その中で真実の経典と言えるのはただひとつ『無量寿経』であると言う。天台宗は『法華経』に、華厳宗は『華厳経』に、真言宗は『大日経』にそれぞれ依拠するように、浄土真宗は『無量寿経』に依拠するという宣言です。
 法然はといいますと「三経・一論」を上げます、「三経とは、一には無量寿経、二は観無量寿経、三は阿弥陀経なり。一論とは、天親の往生論これなり」(『選択本願念仏集』)と。いわゆる浄土三部経を依拠する経典として上げているのですが、親鸞はそのなかで『無量寿経』ひとつに絞るのです。では『観無量寿経』や『阿弥陀経』は真ならぬ偽であるというのでしょうか。そうではありません。親鸞にとって真に対するものとして偽と化の二つがあります。偽は、言うまでもなく、真に反するものですが、化は、それ自体としては真ではありませんが、真へと導く方便です。『観無量寿経』や『阿弥陀経』は真ではないが、偽でもなく、化であるというのが親鸞のとった解釈です。表だって現れている教説(顕)は『無量寿経』に反するように見えるが、その奥に隠れている真意(隠)は『無量寿経』と同じであるとするのです(こうした論点は最後の「化身土巻」で展開されます)。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その28) ブログトップ