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弥陀と釈迦 [『教行信証』精読(その30)]

(5)弥陀と釈迦

 ここであらためて考えておきたいのは、弥陀と釈迦の関係です。弥陀がわれらに本願名号を与え、釈迦はその本願名号をわれらに伝え聞かせてくださるということ。それが「正信偈」では「如来、世に興出したまふ所以(ゆえ)は、ただ弥陀本願海を説かんとなり〈如来所以興出世、唯説弥陀本願海〉」と詠われています。釈迦は釈迦自身の教えを説くのではなく、弥陀の本願名号を説くのであると。これの意味するところは深く、また広い。
 前に、親鸞は親鸞自身の考えを世に明らかにするのではなく、ただ法然上人から聞かせていただいた浄土の真宗を世に伝えようとしただけであると述べましたが、釈迦もまた独自の教えを説きあかすのではなく、ただ弥陀から聞かせていただいた本願名号について世に伝えるだけだということです。
 ここには真理についての重要な秘密が顔をのぞかせています。真理はただひとつであり、もうとうの昔に示されているということです。それが弥陀の本願名号であり、釈迦はそれを聞かせていただき、聞いたところをまた伝えていくだけ。真理は更新されることなく、ただリレーされていくだけということです。
 ただここで注意しなければならないのは、真理はただ一つ、弥陀の本願名号であるから、それ以外はみな虚偽であるとしてしまっては、とんでもない傲岸不遜に陥るということです。宗教にはどうしようもない排他性がつきものですが、それはそれぞれが「われが真理なり」と主張し、他を虚偽として排除することから生じてきます。かくして宗教戦争という悲劇が生まれる。
 真理はひとつです、これは動かない。でもそれを語ることばはさまざまです。釈迦はたったひとつの真理を弥陀の本願名号ということばで語ったのであり、イエスはそのひとつの真理を神の愛(アガペー)ということばで語った。こう考えることで仏教とキリスト教との無益な争いを避けることができます。
 『スッタニパータ』にこんなことばがあります、「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない」(第四 八つの詩句の章)と。謎めいたことばに見えますが、真理そのものは一つであり、それに頷くことができた人は争う必要がないと言っているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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