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本願と名号 [『教行信証』精読(その31)]

(6)本願と名号

 「この経の大意は、弥陀・誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり」と述べた後、「ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」と締めくくられます。弥陀の本願がこの経の「宗」であり、その名号が「体」であって、『無量寿経』は要するに弥陀の本願と名号を説いているのであると結論されるのです。
 経の「宗」と「体」という言い方には伝統があり、天台智顗にはじまるようですが、いまはそんなことに拘泥するよりも、本願と名号の関係について考えてみたいと思います。
 本願とは「一切衆生を一人あまさず往生させたい」という弥陀の願いで(本願とはプールヴァ・プラニダーナ、前の願いという意味で、弥陀がまだ因位にあったとき、すなわち法蔵菩薩のときに立てた誓願ということです)、名号はそれを「南無阿弥陀仏」の六字に約めただけですから、両者は別ものではないことはすでに述べました(4)。
 しかし両者が別ものでないとすると、本願だけでいいではないか、どうして名号が必要になるのか、という疑問が生まれることでしょう。
 これに答えるのは「行巻」ですが、先回りしてひと言しておけば、ことは第17願に関わります。「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)して、わが名を称せずといはば、正覚をとらじ」。四十八願の中心は言うまでもなく第18願で、そこでは「本願を信じ、念仏する衆生を、かならず往生させよう(若不生者、不取正覚―もし生まれずば、正覚をとらじ)」と誓われているのですが、そのひとつ前の第17願で「世界中の諸仏にわが名を称えさせたい」と誓願しているのです。これは何を意味するのか。
 これだけでは分かりにくいのですが(本格的な解明は「行巻」を待つしかありません)、諸仏が「わが名を称える」のは、弥陀の本願を一切衆生に届けるためです。名は体をあらわすと言いますように、弥陀の本願を六字の名号に込めて、それを諸仏に称えさせることにより生きとし生けるものに隈なく行き渡らせようということです。

タグ:親鸞を読む
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