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南無阿弥陀仏 [『教行信証』精読(その32)]

(7)南無阿弥陀仏

 弥陀の本願とはいわば「宇宙の願い」です。宇宙全体にある願いが孕まれている。さあしかし願いというものは、それだけでは無力です、その願いが向けられている生きとし生けるものたち自身にそれが届かなければなりません。故郷にいる親の願いは、遠く離れたところで生きている子どもたちに伝わらなければ力にならないように。さて宇宙の願いはどのようにすれば隈なく伝えることができるでしょうか。願いはことばとして伝えるしかありませんが(ことばを人間の占有物と考えることはできません、生きとし生けるものたちそれぞれに、われら人間の聞き取れないことばがあるに違いありません)、願いのことばを伝えるのが第17願の諸仏です。
 「ほとけ」と言われますと、何か特別な、われらとは別種の存在(仏像として形象化されているような存在)を思い浮かべてしまいますが、第17願で「十方世界の無量の諸仏」と言われるのは、もっと身近な、ぼくらのすぐ隣にいるどなたかを指しているに違いありません。その方が「ほとけ」かどうかは、遇うことができてはじめて判明します。「あゝ、この方がわたしのほとけだ」と感じられたとき、その方が「ほとけ」です。そして、どんなときに「この方がほとけだ」と感じられるかといいますと、その方から宇宙の願いが伝えられたと思われたときです。
 さて「南無阿弥陀仏」という名号は、その六字に宇宙の願いが込められたことばです。どなたかからこのことばが聞こえたとき、宇宙の願いが自分に届いたのです。そしてその方が自分にとっての「ほとけ」です。因みに「南無阿弥陀仏」ということばは「ナモアミターバ」あるいは「ナモアミターユス」というインドのことばを漢字で表しただけであり、実際に宇宙の願いがどのようなことばで伝わるかは、その国、その土地、その人によってさまざまでしょう。宇宙の願いはひとつですが、それがどのようなことばで伝えられるかはさまざまです。
 かくして本願だけではなく、名号が必要であることがはっきりしたのではないでしょうか。宇宙の願い(本願)は、「南無阿弥陀仏」ということば(名号)として生きとし生けるものたちに届けられるのです。

タグ:親鸞を読む
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