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『教行信証』精読(その33) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読(その33)]

(8)本文2

 弥陀の本願が『無量寿経』の「宗」であり、名号が「体」であると述べられ、次いでそのように述べる根拠が経典自体に求められます。

 なにをもつてか出世の大事なりとしることをうるとならば、
 『大無量寿経』にのたまはく、「今日世尊、諸根悦豫(えつよ)し姿色(ししき)清浄にして光顔巍巍(こうげんぎぎ)とましますこと、あきらかなる鏡の浄き影、表裏にとほるがごとし。威容顕曜(けんよう)にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩(せんと)せず、殊妙なること今(きょう)のごとくましますをば。やや、しかなり。大聖、わが心に念言すらく、今日世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄(せおう)、仏の所住に住したまへり。今日世眼、導師の行に住したまへり。今日世英(せよう)、最勝の道に住したまへり。今日天尊、如来の徳を行じたまへり。去来現(こらいげん)の仏、仏と仏とあひ念じたまへり。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なんがゆゑぞ威神の光、光いまししかると(本文3につづく)。

 (現代語訳) どうして弥陀の本願・名号を説くことが釈迦出世の本懐であると知ることができるかといいますと、
 『無量寿経』にこうあります、「(阿難尊者が言われるに)今日の世尊は、身も心も喜びにあふれ、お姿は清らかで、またお顔からは光が照り輝いていますのは、一点の曇りもない鏡に透き通って見えるかのようです。そのお姿の気高い様は申上げようもありません。今日のような妙なるお姿はこれまで拝見したことがありません。そうです、世尊、わたしが思いますに、今日の世尊はとりわけまれな禅定に入っておられるに違いありません。今日の世雄は、仏のさとりの世界に入っておられるに違いありません。今日の世眼は、人々を導く行に入っておられるに違いありません。今日の世英は、もっともすぐれた智慧の境地に入っておられるに違いありません。今日の天尊は、悲智円満の如来の徳を行じておられるに違いありません。過去・現在・未来のどの仏も、仏と仏とが互いに念じあわれるということですが、いまの世尊も諸仏と念じあわれているに違いありません。そうでなければ、世尊のお姿がこのように神々しく輝いておられるのが理解できません。

タグ:親鸞を読む
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