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出世の本懐 [『教行信証』精読(その36)]

(11)出世の本懐

 阿難は釈迦の五徳瑞現を見ることができ、仏々相念の場にいあわせることができたのですが、それはまさに釈迦が「群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんと」しようとしていたそのときでした。それこそ如来が「世に出興する」わけであり、そしてそれは「無量億劫にもまうあひがたく、みたてまつりがたきこと、なをし霊瑞華のときありてときにいましいづるがごと」きことだと言います。この部分をとらえて親鸞は『無量寿経』こそ釈迦出世本懐の経典であるとするのです。
 他の数ある諸経典(天台宗における『法華経』、華厳宗における『華厳経』など)ではなく、弥陀の本願・名号を説く『無量寿経』が釈迦出世本懐の経典であることを本格的に根拠づけるには、その序分ではなく正宗分について論じることが必要になってきますが、それはこの『教行信証』という書物全体を上げてなしとげるべきことであり、冒頭の「教巻」では、まずは序分から「世に出興するゆへは、道教を光闡して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり」という釈迦のことばを引いて、一応の根拠としていると見るべきでしょう。
 ところでこのくだりを読んで気になることが二点あります。
 そのひとつが「よきかな阿難」と、阿難の問いを喜ぶところまではごく自然なのですが、そのあと「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ」というところから、釈迦は自分のことを語っているはずなのに、何か他人事のような印象を与えるということです。そもそもみずからを語るのに尊敬語をもちいることが不自然に感じられます。経典とはそのようなもので、仏はみずからを尊敬語で語ることになっているのだと書かれてあるのを読んだときは、「へー、そんなものか」と思っただけでしたが、どうしてそうなのかは一考にあたいするのではないでしょうか。
 仏々相念のところで述べましたように、仏には阿弥陀仏とか釈迦仏というように固有の名があるとはいえ、「ほとけのいのち」としてはひとつであるということ、ここに秘密を解く鍵があります。釈迦が自分のことを「如来は」と言い、そして「したまふ」と語るのは、釈迦としてではなく「ほとけのいのち」として述べているからです。釈迦は「ほとけのいのち」として「無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ」ということです。

タグ:親鸞を読む
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