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もろもろの有情を哀愍し利楽せんがため [『教行信証』精読(その40)]

(3)もろもろの有情を哀愍し利楽せんがため

 そしてもう一点、『大経』では阿難が釈迦に問いかけたのは「ふかき智慧、真妙の弁才をおこして、衆生を愍念せんとして」であるとされていました。この言い回しでは、阿難が気づいたことを釈迦に問おうとしたのは、自分のためであるとか、他の意図とかからではなく、そうすることが衆生のためになると考えてのことであると読めます。
 しかし『如来会』では、阿難が「如来にかくのごときの義をとひたてまつ」ったのは、「優曇華の希有なるがごとくして大士世間に出現したまへ」るところに遇うことができた喜びからであるとともに、「またもろもろの有情を哀愍し利楽せんがためのゆゑ」であるとされます。この表現では、阿難がこの義を問いたてまつったのは、結果としてもろもろの有情を大きく利することになったと読むことができます。
 『如来会』の方がすんなりと頭に収まります。阿難は釈迦出世の本懐に遇うことができたことを慶ぶのですが、それはただ阿難ひとりのことではなく、「もろもろの有情を哀愍し利楽」することになるということです。阿難の慶びは、もろもろの有情の慶びにつながっていくということ、ここにも第17願が顔を出しています。
 法蔵は「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめる)してわが名を称せずといはば正覚をとらじ」と誓い、本願が六字の名号に約められて一切衆生のもとへ届けられるのでした(第3回、6参照)。釈迦が出世の本懐として弥陀の本願・名号を説くのも諸仏称名の一環ですが、釈迦出世の本懐の場に居合わせた阿難もまた弥陀の本願・名号を人々のもとへ届けることになるのであり、『如来会』で「またもろもろの有情を哀愍し利楽せんがため」と言われているのはそういうことだと理解することができます。
 こんなふうに『大経』だけでなく、『如来会』も参照することで、その言わんとするところをより深く理解することができるようになるのですが、親鸞はさらに加えて『平等覚経』も持ち出します。

タグ:親鸞を読む
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