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本文5 [『教行信証』精読(その41)]

(4)本文5

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 『平等覚経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、世間に優曇鉢樹(うどんばじゅ)あり。ただ実ありて華あることなし。天下(てんげ)に仏まします、いまし華の出づるがごとくならくのみ。世間に仏ましませども、はなはだ値(もうあ)ふことを得ること難し。いまわれ仏になりて天下に出でたり。なんじ大徳ありて、聡明(そうみょう)善心にして、あらかじめ仏意を知る。なんじ忘れずして仏辺にありて仏に侍へたてまつるなり。なんぢいま問へるところ、よく聴き、あきらかに聴け」と。以上

 (現代語訳) 『平等覚経』には次のように説かれています。「釈迦が阿難に言われます。世間には優曇鉢樹がありますが、ただ実があるだけで花の咲くことはありません。世に仏がましますのは、その優曇鉢樹に花が咲くようなものです。世に仏がおわしましても、その仏にお遇いするのははなはだ難しいことです。いま私は仏として世にあらわれています。あなたは大いなる徳があり、また聡明にして善い心をお持ちで、言われなくても仏の気持ちをよく知ることができ、またそれを忘れずに仏の傍につかえておいでになります。あなたがいまお尋ねになったことを耳を澄ませてよく聴かれるがよろしいと」。

 この『平等覚経』の文では、仏に遇うことの難しさが強調され、阿難は聡明にして仏に遇うことの意味をよくわきまえていることが述べられています。
 それについて考える前に、もういちど5存7欠の話にもどりますと、『平等覚経』(漢訳)と『大阿弥陀経』(呉訳)は本願の数が24であることから二十四願経とよばれ、『大経』(魏訳)と『如来会』(唐訳)は本願が48であることから四十八願経とよばれます(『荘厳経』(宋訳)では本願は36です)。肝心の本願の数がこんなにも違うということは、漢訳されるもとの原典が何種類かあったと考えざるをえません。親鸞は『大経』、『如来会』だけでなく、『平等覚経』、『大阿弥陀経』という古いバージョンもよく引用しますが、それは四十八願経だけでは読みとれないことを二十四願経からうかがうことができるからでしょう(そのことは次の「行巻」において鮮やかに示されます)。

タグ:親鸞を読む
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