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これ真実の教を顕す明証なり [『教行信証』精読(その45)]

(8)これ真実の教を顕す明証なり

 教巻のはじめに「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と宣言し、それを経文の上に証拠立てようと、「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり」に代表されることばを引いてきて、ここに「これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ如来興世の正説云々」と結論づけたわけです。かくして弥陀の本願と名号を説く『大無量寿経』こそ釈迦出世の本懐の教えであるとなるのですが、これはしかし『法華経』を本懐経とする天台宗や『華厳経』を本懐経とする華厳宗など聖道諸宗からすればとんでもない妄説と言わざるをえないでしょう。
 実際、たとえば『法華経』こそ釈迦出世の本懐の経であることは『法華経』の中にそう書いてあるわけで、『大無量寿経』が真実教であることは『大無量寿経』にそう書いてあると言っても水掛け論に終わってしまうでしょう。ではどうすればいいのか。どうするもこうするも、『大無量寿経』自身に、ここに釈迦出世の本懐である真理が説かれていることを語らせる他ありません。それが次の「行巻」をはじめとする各巻においてなされていくことになるわけですが、ここで少し考えておきたいのが「証明する」ということについてです。「ここに真理がある」ことは、そこで述べられている真理そのものが証明するしかないということ、これです。
 思い出されるのが、金子大栄氏のことです。金子氏は若い頃、弥陀の本願の真理性を自分が証明しなければならないという使命感を抱いたそうです。本願の教えを世に広めようとすれば、それが絶対の真理であることを誰の目にも明らかになるように証明しなければならない、それが真宗学徒としての自分に課せられた使命であると。将来を嘱望された学徒としてまことにもっともであり、殊勝な使命感であると言わなければなりません。世の学者たちはみな多かれ少なかれそのような思いで日々研鑽をつんでいるに違いありません。しかしあるとき金子氏はそれがとんでもない倒錯であることに気づいた。

タグ:親鸞を読む
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