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証明するということ [『教行信証』精読(その46)]

(9)証明するということ

 弥陀の本願が真理であると「証明する」というのは、自分が弥陀の本願に対して「真理」というハンコを押すということです。金子大栄氏が弥陀の本願に「これは真理である」と太鼓判を押すということですが、これは何かおかしい。自分が弥陀の本願を証明するのではなく、逆に、弥陀の本願が自分を証明するのではないのかと感じたというのです。自分が弥陀の本願が存在することを証明するのではなく、むしろ弥陀の本願の方がこんな自分が存在していいことを証明してくれるということ。
 真理に二種類あるということです。ひとつはこちらからそれが真理であることを証明しなければならない真理で、世のもろもろの学問が日々獲得せんと苦闘している真理たちです。しかしもうひとつの真理があり、それはむこうからそれが真理であることが証明されてくる真理で、それあるがゆえにわれらは生きることができ、死ぬことができるような真理(キルケゴール)です。われらがそれの存在することを証明するどころか、それがわれらの存在することを証明してくれるのです。
 これまで「こちらからゲットする」こと(自力)と「むこうからゲットされる」こと(他力)を対比してきましたが、真理も「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」があります。そして「こちらからゲットする真理」はそれが真理であることをわれらが証明しなければなりません。これは真理だと思ったものの、まがい物だったという可能性がありますから、間違いなく真理であることを保証しなければなりません。学問とは日々その営みを続けているのです。
 しかし「むこうからゲットされる真理」は、それが真理であることを真理そのものが証明しています。われらがそれにゲットされたこと自体が、それが真理である何よりの証拠です。弥陀の本願はある日突然「むこうからゲットされる真理」であり、それにゲットされたことそれ自体が真理であることの証明となっています。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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