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諸仏称名の願 [『教行信証』精読(その47)]

        第5回 行巻(1) みなを聞きて往生せんとおもへば

(1)諸仏称名の願

 これから「行巻」、正式には「顕浄土真実行文類 二」に入ります。冒頭に「諸仏称名の願」と掲げられ、その下に細字で二行、「浄土真実の行」、「選択本願の行」と書かれています。因みに「信巻」の冒頭には「至心信楽の願」(第十八願のことです)とあり、「証巻」には「必至滅度の願」(第十一願です)とありますように、それぞれの巻の頭に根幹となる願が掲げられています。これから浄土真実の行を明らかにするその中心に第十七願、すなわち諸仏称名の願があるというわけです。
 このすぐ後に引用される第十七願を先回りして見ておきますと、「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ」というもので、世界中の仏たちが、わたしをほめたたえてわが名を称えなければ正覚をとらない、仏にならないということです。これを親鸞は諸仏称名の願と名づけているのですが、ここで称名とは「名を称える(たたえる)」とともに「名を称える(となえる)」ということです。名をたたえることは、取りも直さず名をとなえることです。
 学生時代に意を決して独力で『教行信証』を読んだときのことを思い出します。戸惑いに次ぐ戸惑いでした。
 まず、「教巻」とありますことから、ここには浄土真宗の教えが説かれているのだろうと思いきや、たった数ページの中に『大無量経』こそ真実の教えが説かれた経であると宣言されているだけであることに面食らいます。そして次の「行巻」。これは浄土真宗の行について明らかにする巻のはずなのに、その冒頭に掲げられるのが第十七願、諸仏称名の願であることに驚かされます。浄土の真実の行と言うのだから「われらの称名」に決まっていると思うのですが、「諸仏の称名」と言われるものですから、これはどうしたことかと頭を抱えることになります。
 いやはや、この書物は謎だらけで一筋縄ではいかないぞという印象です。

タグ:親鸞を読む
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