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わが名 [『教行信証』精読(その50)]

(4)わが名

 ぼくらの名前の場合、名前そのものと、その名前を呼ぶことはまったく別です。そしてぼくらの名前、たとえば「浅井勉」は他の人からぼくを区別するための記号にすぎません。ところが「阿弥陀仏」あるいは「尽十方無碍光如来」という名は他の仏から区別するためのただの記号ではありません。第十七願をもういちど見てみますと、「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ」とあります。四十八願の中で「わが名」(あるいは「わが名号」、「わが名字」)ということばはここではじめて顔をだし、そのあと十二回にわたって登場します(第二十願、第三十四願、第三十五願、第三十六願、第三十七願、第四十一願、第四十二願、第四十三願、第四十四願、第四十五願、第四十七願、第四十八願)。
 第十七願では名号は「諸仏が称える(たたえるとともに、となえる)」もので、そのあとに登場する名号はみな「十方の衆生が聞く」ものです。つまり「わが名」は諸仏がそれを讃えて称え(称名)、衆生がそれを聞く(聞名)という関係であらわれるということ、ここに名号の秘密があります。卑近な例でいいますと、選挙の際に、候補者の名前が連呼されるようなもので、運動員たちが候補者の名を連呼するのは、その名を讃えて選挙民たちに届けようとしているのですし、選挙民たちはそれを聞かされるわけです。このように、候補者の名はただの記号ではなく、候補者を褒めたたえてその名を人々のこころに届けるものですが、阿弥陀仏の名も、ただの記号ではありません。その徳を讃えて称えられるものであり、われらのこころに届けられるものです。
 ところで弥陀の名号といいますと南無阿弥陀仏であり、ただの阿弥陀仏ではありません。これまたはじめて『教行信証』を読んだぼくに大きな疑問として立ちはだかりました。名号とは名前ということなのに、どうして阿弥陀仏の前に「南無」がつくのか。いろいろ本を読んでも正面から答えてくれるものにお目にかかれません。しかしこれも弥陀の名号は諸仏が称名するものであり、十方の衆生がそれを聞かせてもらうものであるということから自然と了解できます。

タグ:親鸞を読む
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