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南無阿弥陀仏 [『教行信証』精読(その51)]

(5)南無阿弥陀仏

 「行巻」のハイライトは何かと問われたら、迷うことなく、南無阿弥陀仏とは何かを明らかにする、いわゆる「六字釈」だと答えたいと思いますが、そこでは「南無」とは「帰命」であると言われます。では帰命とは何かと問い、以下驚くべき展開をみせていくのですが、それは後の楽しみに取っておくとしまして、ここでは南無はインドのことば“namo”の音訳であることを確認しておきたいと思います。“namo”は「敬う」ということで、「こんにちは」を意味する“namaste”はいまも日常の挨拶としてつかわれています。これは「あなた」=“te”を「敬います」=“namas”(“namo”と同根)ということです。
 そこから南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏を敬います」を意味することが分かります。第十七願で「十方世界の無量の諸仏がわたしの名を讃えて称えるようにしたい、そうでなければ正覚をとらない」と誓われたということは、諸仏が「阿弥陀仏を敬います」と称えるようにしたいということに他なりませんから、名号はただの阿弥陀仏ではなく南無阿弥陀仏でなくてはならないのです。われら十方の衆生から言いますと、ただ阿弥陀仏と聞こえてくるのではなく、諸仏の南無阿弥陀仏という声が聞こえてくるということです。そして名号は阿弥陀仏ではなく南無阿弥陀仏であるということは、名号と称名(われらから言えば聞名)は別ものではないということを意味します。
 さて「大行とはすなはち無碍光如来のみなを称するなり」とあり、「しかるにこの行は大悲の願よりいでたり。すなはちこれ諸仏称揚の願となづく云々」とつづくのですが、ここに疑念が生じたのでした。「無碍光如来のみ名を称する」のが行であると聞きますと、当然「われらが無碍光如来のみなを称する」ことだと思うのに、これは第十七願すなわち「諸仏が無碍光如来のみ名を称する」という願から出てくると言われるものですから、「うん?」となるのです。どうして「諸仏が南無阿弥陀仏と称えるようにしたい」という願から、「浄土の行は南無阿弥陀仏と称えることである」が出てくるのかと。

タグ:親鸞を読む
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