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往相回向の願 [『教行信証』精読(その52)]

(6)往相回向の願

 第十七願の名として「諸仏称揚の願」・「諸仏称名の願」・「諸仏咨嗟の願」・「往相回向の願」・「選択称名の願」の五つが上げられます。前の三つは伝統的にそう呼ばれてきたもので、みな同じ意味です。要するに、諸仏が阿弥陀仏をほめたたえるということです。親鸞までは(おそらくは法然も)、この願は単純に「わたしの名が世界中の仏たちから認められ、ほめられたい」という意味に解されてきたと思われます。しかし親鸞はこの願にそれ以上の決定的に重要な意味を見いだすのです。それが「往相回向の願」と「選択称名の願」という名に示されています。
 「往相回向の願」とは、名号(すなわち称名)は弥陀から回向される(与えられる)ものだということです。
 ぼくらはどうかすると名号(すなわち称名)はぼくらが回向するものと考えてしまいます。ぼくらが弥陀に向かって南無阿弥陀仏(「阿弥陀仏を敬います」)と称えるというように。それが間違いだというわけではありませんが、忘れてならないことは、ぼくらが弥陀に南無阿弥陀仏と称えるより前に、諸仏が南無阿弥陀仏と称えているということです。諸仏が南無阿弥陀仏と称える声が聞こえて、ぼくらはその声に唱和するように南無阿弥陀仏と称えるということ。ぼくらが南無阿弥陀仏と称えるのは、それに先立って諸仏の南無阿弥陀仏の声が聞こえるからです。名号が聞こえる(聞名)から、名号を称える(称名)、この順番が重要です。
 第十七願は単に「わたしの名が世界中の諸仏からほめたたえられますように」ということではありません。「わたしの名が世界中の諸仏からほめたたえられることにより、一切衆生にわたしの名が届きますように」という誓願なのです。先ほど、四十八願のなかで第十七願にはじめて「わが名」があらわれ、そのあと十二回にわたって「わが名」(「わが名号」、「わが名字」)が登場すると言いましたが、まず第十七願で諸仏が「わが名」を称え、そのあとの十二願で十方の衆生がそれを聞くということから、諸仏が弥陀を褒めたたえるのは、十方の衆生に弥陀の名号が聞き届けられるためであることが分かります。

タグ:親鸞を読む
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