SSブログ
『教行信証』精読(その58) ブログトップ

誤読では? [『教行信証』精読(その58)]

(12)誤読では?

 親鸞は『如来会』からは第十七願を引用することはせず、重誓偈から三つの偈文を引き、そして第十七願の成就文にあたる部分を引いていますが、どうして『如来会』の第十七願を引かないのだろうかと思います。「信巻」では『大経』の第十八願およびその成就文と『如来会』の第十八願およびその成就文を欠け目なく引いているのに、なぜ「行巻」では『如来会』の第十七願を引かないのでしょう。
 『如来会』の第十七願を見てみますと、無数の諸仏が「わが国を咨嗟し称嘆せずば正覚をとらじ」となっています。『大経』では無量の諸仏が「ことごとく咨嗟してわが名を称せずば正覚をとらじ」となっていたのが、『如来会』では「わが名」ではなく「わが国」となっているのです。「わが名」を讃えることは「わが国(安養浄土)」を讃えることに他なりませんから、『大経』と『如来会』とで違いがあるわけではありませんが、親鸞にとって「行巻」は名号、「南無阿弥陀仏」を称えることを説く巻ですので、『如来会』の第十七願を引くのは控えたのだろうと思われます。
 それよりも、先の注2で触れたことが気になります。『如来会』の文、「心あるいは常に施を行じ、ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して、安楽ならしむるに堪えずんば、救世の法王にならじ」を、親鸞は「心あるいは常行にたえざらんものに施せん。ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん」と読んでいるということです。文末にくる「救世の法王にならじ」を無視して読んでいるのですが、これは普通に考えますと、誤読と言わざるをえません。このさき読んでいくなかでしばしばお目にかかりますが、親鸞はどうにも無理筋と思われる読み方をあえてすることがあります。
 考えようによっては経論を自分勝手に読み替えているということになりますが、親鸞としてはそのようにしか読めないのでしょう。いや、親鸞にとって、経論はただの文字ではなく、そこから仏の声が聞こえてきているに違いありません。ここでも、「常行にたえざらんものに(名号を)施せん」という法蔵の声が聞こえて、もうそのようにしか読めなくなったのに相違ありません。

                (第五回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その58) ブログトップ