SSブログ
『教行信証』精読(その61) ブログトップ

わが名字を聞きて [『教行信証』精読(その61)]

(3)わが名字を聞きて

 『大経』に戻って言いますと、第十七願の意味は第十八願をまってはじめて明らかになり、逆に、第十八願は、第十七願があってこその願であることが了解できます。諸仏が弥陀の名号を称えるのは、弥陀の名号を一切衆生のもとに届けるためであることが明らかになり、一切衆生が弥陀の名号を聞いて歓喜踊躍することができるのは、諸仏が弥陀の名号をくまなく聞き届かせてくれるからであることが了解できるのです。かくして法蔵菩薩は生きとし生けるものを「みなわが国に来生せしめ」ようとして、その願いを名号というかたちで一切衆生に与えたことがこの上なく明瞭になります。
 第十七願は「諸仏称名の願」であり、第十八願は伝統的に「念仏往生の願」と呼ばれてきました。一方は「諸仏の称名」、他方は「われらの念仏(称名)」。このふたつをつなぐものが「聞名」です。「諸仏の称名」は、取りも直さず、「われらの聞名」であり、そして「われらの聞名」は、そのまま「われらの称名」となる。かくして「諸仏の称名」と「われらの称名」がつながるということ、これが『大阿弥陀経』の第四願から明らかになるのです。念仏の教えは、その名からして「称名」に主眼がおかれますが、実は「聞名」にこそそのエッセンスがあるということです。
 ぼくらは念仏といいますと、南無阿弥陀仏と称えることが真っ先に頭に浮びます、南無阿弥陀仏という不思議なことばを口に称えることが念仏であると。ところがこの『大阿弥陀経』の第四願はそれが思い込みにすぎないことを明かし、こう言うのです、「諸天人民蜎飛蠕動のたぐひ、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわがくにに来生せしめ」んと。南無阿弥陀仏という不思議なことばを口に称えるものを「わが国に来生せしめ」んと言うのではなく、それを聞いて「歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ」んと言うのです。
 『大阿弥陀経』が『無量寿経』の古層に属するということは、その原型であるということですが、そこでは念仏とは称名である前に聞名であるということになります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その61) ブログトップ