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いのちをへて [『教行信証』精読(その63)]

(5)いのちをへて

 『平等覚経』の二十四願は、『大経』の四十八願の前半部分とかなりよく重なっています。第一願から第十六願までは一部順番が前後することはあっても『大経』とほぼ同じですが、第十七願にきまして、先に述べましたように、『大経』の第十七願と第十八願を合わせたものとなります。そして第十八願が『大経』の第十九願と、第十九願が『大経』の第二十願と重なるといった具合です。さて、『大阿弥陀経』の第四願と同じ内容の第十七願はいいとしまして、さらに第十九願が引かれるのはどういう意図からでしょう。
 この願文を読んで、まず気になりますのは、「前世に悪のためにわが名字をきき、およびまさしく道のために、わがくにに来生せんとおもはん」の「悪のために」とはどういうことかという点です。「前世為悪聞我名字」とは、前世で悪を為したことが機縁となって、名号をきくことができたということでしょう。そして「およびまさしく道のために(及正為道)」とは、その反対に救いの道をえようとしたことが機縁となって、と理解することができます。としますと、過去世に悪を為したり、善を為したことが縁となって名号を聞くことができた、ということで、名号を聞くことができた縁は善悪どちらでもありうるが、名号を聞いて喜ぶものはみなわが国に来生させようということになります。
 そしてこの願では「いのちをへて」という文言が目につきます。引用されていませんが、ひとつ前の第十八願(『大経』の第十九願に相当)でも、われを念ずるものを「いのち終はるとき(寿終時)」に来迎したいと願われています。ところがこうした文言は先の第十七願にはありません。これをどう理解すれはいいか。往生が「いのち終へたのち」であることは当然だから第十七願ではあえてふれていないだけなのか、それとも第十七願と、第十八願および第十九願との間には何らかの落差があると見るべきなのか。これはいまの段階で詳しく論じることはできませんが、先回りして結論だけを述べておきますと、親鸞は『大経』の第十八願(『平等覚経』の第十七願)と、第十九願(同じく第十八願)および第二十願(同じく第十九願)との間に「真実と方便」の違いを見ることになります(「化身土巻」)。
 ではなぜ『平等覚経』の第十九願が引用されたのかといいますと、やはり「前世に悪のためにわが名字をきき」というところが親鸞のこころを惹きつけたのではないでしょうか。過去世の因縁が善にせよ悪にせよ、それによって名号を聞くことができれば、それで往生できるというのは、何とすばらしいことかと。

タグ:親鸞を読む
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