SSブログ
『教行信証』精読(その68) ブログトップ

一生に不退転をえん [『教行信証』精読(その68)]

(10)一生に不退転をえん

 読んでいて意味がとりにくいところがあるのは、主語が途中でクルクル入れ替わるからです。これは『大経』では東方偈(往覲偈‐おうごんげ‐とも言います)に当たる部分ですが、そこからかなりのボリュームの偈文が飛び飛びに引用されているのです。『大経』の東方偈からは「その仏の本願力、みなを聞きて往生せんとおもへば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」という有名な一節が引かれていますが(第5回―9、本文3)、それがここでは「一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。わが願ずるところ、みな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転を得ん」という弥陀のことばとなっています。
 さてこのことばをどう理解すればいいか。弥陀の本願・名号を聞くことをえた人は、みな浄土に往生し、「一生に」不退転の位につくというのですが、「一生に」とは、この世を生きているままでということに他なりません。としますと、本願・名号を聞いた人は、そのまま直ちに往生し、不退転(仏となることから退転しない)となるということです。少し前のところ(本文2)で、『平等覚経』の第十九願が引かれ、そこには「いのち終へてみなまた三悪道にかへらざらしめて、すなはちわが国に生れんこと」とありました。第十七願(『大経』の第十七願と第十八願を合わせたもの)ではそのようには言われていないのに、第十九願に(そして第十八願にも)「いのち終へて」とあるのをどう見たらいいのかを考えましたが、ここでまた同じ問題にぶつかります。
 本格的な議論は先にとっておくしかありませんが、親鸞の基本的な立場は、この引用文にある「みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転をえん」ということばをそのまま素直に受け取るものであることを予告しておきたいと思います。本願・名号を聞いたとき、直ちに往生し不退転となることをもっともストレートに表現することばは『大経』の第十八願成就文で、そこにはこうあります、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」(親鸞独自の読み)と。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その68) ブログトップ