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もろもろの善本を修して [『教行信証』精読(その71)]

(13)もろもろの善本を修して

 この願は、一見したところ『大経』の第十八願によく似ていますが、「もろもろの善本を修して」という文言と、「それ捨命ののち」という文言においては、『大経』の第十九願や第二十願に類似しています。『大経』の第十九願には「もろもろの功徳を修め」、「寿終のときにのぞんで」とあり、第二十願には「もろもろの徳本をうへて」とあります。このように『悲華経』のこの願は『大経』の第十八,十九,二十の三願が未分化の状態で混在していると言えます。のちに明らかになりますように、親鸞はこの三願の違いを重視し、「化身土巻」において詳しく論じていますが、その結論を取り出しますと、第十八願が真実の願であり、第十九願と第二十願は方便の願であるということです。
 その議論のエッセンスを親鸞は関東の弟子に宛てた手紙の中で分かりやすく述べていますので上げておきましょう。「来迎は諸行往生(さまざまな行を修めることにより往生をめざす)にあり。自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す。このゆゑに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(『末燈鈔』第一通)。
 「もろもろの善本を修して」と「それ捨命ののち」は分かちがたく結びついているということです。さまざまな行(そのなかには念仏行も含まれます)を修めることによって往生しようとすること(諸行往生)と、その往生はいのち終わって後のことである(臨終往生)のはひとつのことです。諸行により往生しようとする人の眼は未来を向いていて、その先には臨終の来迎があります。臨終において阿弥陀如来が観音・勢至をはじめとする聖衆とともに迎えに来てくださるのを夢みて諸行に精を出すのです。その人は「いまだ真実の信心をえざる」と親鸞は言います。では真実の信心をえた人はというと、「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」で、もう未来の臨終をまつことはありません、来迎をたのむこともありません。もうその足下に浄土が現在しているのですから。

タグ:親鸞を読む
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